お寺の歴史

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駿河、遠江の太守今川治大輔義元公は、永禄三年五月、二万五千の精兵を率いて、天下に号令すべく上洛の途中、尾張桶狭間に於いて、織田信長に襲われ、雄図空しく壮烈な戦死を遂げた。義元公の家臣野呂民部丞は、その后武家を捨て、清水港北矢部在に居を構え、醸造業を営んだ。

やがて星移り年変わって、徳川家康公が大御所として、駿府に隠居することになった。 公は民部丞に旧主義元公菩提の為に一寺を建立するように命じた。

民部丞は、当時有度山麓にあって、廃寺同様になっていた浄徳院、真定院を合併移転、 自分の邸を分って一寺を建立した。民部丞の子息、弘般が清見寺に於いて禅の修行を積み、新定院の開山となり、雲門禅師の古道場、中国の韶陽「新定院」の名をついで、山号を「雲門山」寺号を「新定院」と名づけたと云う。


家康公は当寺に十石一斗の朱印状をあたえた。公は久能城より小芝城に至る途中、しばしば当寺に立寄り、開山天心弘般禅師と対謁した。

現在寺宝として、家康公所持の葵紋ちらし金蒔絵団扇と硯石及び御朱印箱、長持があり、 歴代公方よりも御朱印状を賜った。 今でも、毎日各将軍合霊位牌に読経回向しているが、 特に四月十七日家康公命日には天心禅師が生前、公に差し上げたという黄粉団子を献じ、供養している。因みに、公の法号は「安国院殿大相国公徳蓮社祟誉道和大居士」と謚号され、神号が「東照大権現」である。

開山天心弘般禅師は、慶長八年十二月十一日遷化。第五代黙源映本禅師が、清見寺得巌宗髄禅師により、妙心寺関山一流の禅法を伝えられ、以後連綿として現在に至っている。


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